住職 真野龍海
天光院ホ-ムペ-ジに画廊ギャラリ-を開くに当たりまして一言申し上げます。文字よりも画の方が語りかけが多いかもしれぬと色々の画や写真をコメントをつけてご笑覧に呈したいと企画しました。まずソフトに始めたいと春の舞妓姿から始めました。
そこで、住職が何故と訝る方も多いと思いますので、ちょうど浄土宗総本山知恩院発行の『知恩』誌に十五ヶ月連載させていただいた時の拙文を引用して舞妓を画く説明とします。
以下『知恩』誌の平成9年12月号掲載の私の文章の転載です。
【 今回、図らずも、晴れがましくも『知恩』誌の表紙を拙画で飾らせてもらうという光栄に浴して、まことに恐懼至極でございます。しかし、予定通り順調に進行していて大変喜んでおります。そろそろ終盤に近づいたから、なにか、感想を書けとの編集子の仰せで一文をしたためます。
私は学生時代に、知恩院の施設である平安養育院に、今でいうボランテイヤ-として奉仕していたことがあります。日曜学校と週一回夜の学習指導に出かけていました。冬には、寒念仏というて、十数人の仲間と、編み笠、黒衣姿で知恩院山下の周辺の篤信の信者さんの家々を回りながら、托鉢に声を嗄らしたしたものです。当然、夜の花街も通過するが、当時は人影もまばらで、所々街灯がぼんやりとした明かりを投げかけていました。
その街角に佇んで我々を待っている女の人がいました。黙って喜捨のお金を差し出す、手に握りしめて持っていたその温みが伝わるようでし。そのときの拙句は、「寒念仏布施温かき銅貨かな」。青年僧に街の人の心がじんときたのでありましょう。
とあるお茶屋さんに小憩してお茶を頂いていると、同行の知恩院の秦隆真課長が我々に言われました。お前らはこのような所には来たらあかんぞと。お前らというのは若僧ということであったと思いますが、無論我々が行けたものではなかったから、あまり、気にもしなかったのであります。
それから半世紀、私はその知恩院の『知恩』に祇園の舞妓さんの絵を描かせてもらっているのであります。描き始めたきっかけは、舞妓さんを二度三度見る中、季節や年齢とともに髪飾り等が美しく変っていく事は、絵として楽しみでもあるし、また、舞妓の絵は、私の周辺も私の絵が下手ながらも関心を持ってくれました。また、彼女等の十五,六才から二十すぎというのは、女性としての美しさを加える一つの頂点のような時期に相当し、その移ろい行く美を、雅な雰囲気の中で見ながら、素人ながら何とかして、その感じを絵にしたいという衝動が、次々と、作品を生みだしたのでしょう。
描いている間はまさに絵三昧といったところで、無心でもあり、楽しい一時です。はじめの頃、襖をしめた部屋の中で、入ったきりで、しんとして物音一つせずに舞妓さんの絵を描いているいるので、店の人が怪しんだのか、男衆が時ならず夜というのに部屋の外の廊下を両手をついて雑巾掛けをするふりで見に来た事もあります。
私は主にパステルで描きます。ガススト-ブが入っていると空気に湿度が加わって、パステルが湿って、いつもとは調子が違います。部屋の静寂を破るのはスト-ブだけ。思わず一句。「スト-ブの音幽かなり描き進む」
パステルは色が混じらない、などという人がありますが、粉だけを固めたパステルならば、相当混色がでます。しかし、パステルの画筆は我が指が最適です。溶剤もなく、ひたすら、その粉のパステルを紙にこすりつけるのですから、なかなか、紙になじみません。しかも、指は細筆のように細かい塗り方が出来ません。紙はキャンソンというのを使っています。丈夫でかなり何度もこすりつけてもしっかりとしていますし、表面に細かい凹凸があってパステルを受け止めてくれます。
絵を制作し、仕上げるのは、我が画房(?)の中です。長いこと根よく時間をかけてやっと紙になじんで絵が出来てくると、もう楽しくてたまりません。外出から帰った時、朝起きた時、絵はどうかな、と見る楽しみは、完成に近くなるにつれて高まってきます。下手な素人にとっては、むしろ、このゆっくりとした完成の間に、あれこれと、形や、色、明暗の見直しや工夫が出来ます。しかも、後々、見直しながら、修正、加筆をするのも、楽しみです。 このようにして一枚の絵を完成するのは、仕事の合間を縫って、少しずつやるのですから、数週間、時には間をおいて二,三ヶ月も、かかることも普通です。しかし、その間、このような楽しみが続くのですから、ありがたいものです。
パステルは油絵が一々筆やパレットを掃除しなくてはならないのに比べて、パステルの筆は指、水で洗えば簡単に落ちます。出先の座敷でも、画材を包んでいく風呂敷をうまく敷けば、場所を汚すこともありません。私は製図等を入れる筒に、巻いた画紙、中にパステル、鉛筆等を入れ風呂敷に包んで行きます。また、画房では未完成の絵の側にパステルを置いておけばいつでも描きだせます。
舞妓は女性であっても色気があっては舞妓さんと違うともいわれ、個人の女性ではなく、公器的な性格があり、万人に好まれ、もしくは、関心がありますので、描く方も、描きやすく、はりあいがあって、ますます、図に乗って描いております。特に、『知恩』に載せていただけるとなると、歴史的なことでしょう。掲載の依頼のあった時は、本人はまさかと思いました。第一回が出ても、ひょっとしたら、中止になるかもしれないとさえ思っていました。今は、これが世間の雑誌、庶民の雑誌の一つの顔だろうと納得しました。
しかし、知恩院と祇園の舞妓さんとは同じ林下町、奥の法然上人御廟下*、右奥の濡髪明神様には、祇園の女性が昔は善い縁のありますようお参りしたものであります。先般は復活を願い、知恩院の方々とお参りさせました。女人説法の法然上人も嘉されるでしょう。読者の皆様、ご愛顧有り難うございます。 】
*註 そこに天光院供養塔があります。
