観智国師(存応上人)

 観智国師(存応、1544〜1620年)は天文13年(1544年)由木利重の次男として武蔵国多摩郡由木(現 東京都八王子市)に生まれました。武蔵国片山村(現 埼玉県新座市)の宝台寺で時宗を学び、後に浄土宗に転宗して、増上寺第11世円也から五重宗派を授与されました。増上寺第12世となったのは天正12年(1584年)のことです。

天正18年(1590年)8月、小田原の後北条氏の旧領を与えられて江戸に入った德川家康公は、入府後すぐに増上寺の存応上人(のちの観智国師)と師檀契約を結び、増上寺を菩提寺と定めました。その後の存応上人の目覚ましい活躍と、増上寺の飛躍的な発展はここから始まります。

念仏は三毒を滅するか否かという安心 [あんじん] 問答に勝利し、家康公に政治的手腕を認められた存応上人は、家康公の働きかけにより慶長4年(1599)に一代の紫衣 [しえ] の綸旨を、同13年(1608年)には代々の紫衣(常 [じょう] 紫衣)の綸旨を賜ります。一方、増上寺は慶長3年(1598年)に現在の芝の地に移転し、同18年(1613年)9月までに、威風堂々とした三解脱門、本堂、経蔵といった、将軍家の菩提寺としてふさわしい大伽藍が建立されました。さらに、家康公は各地の寺院から宋版・元版・高麗版の一切経を召し上げ、増上寺に寄進しています。

こうして、家康公と結びつきを強めた存応上人により、増上寺は関東有数の大寺院となっていったのです。